「神の冬 花の春」第二章の1

  • 2014.11.17 Monday
  • 16:21
第2章  その人たちには特別な日

 水淵季里と遠賀更紗が出会うきっかけを作ったのは、映画研究会の杉山敏だった。
 杉山は、その年の最後の作品に、ふたりの女の子を主役として考えていた。彼は顔の広さと人なつこさを利用して、逝川高校のすべてのサークルに出入りし、キャスト候補を捜している。
 文芸部の季里とは、以前から知り合いだった。一緒に、ある事件に関わったこともある。
 もう一人の女の子は、演劇部の練習を見学していて見つけた。舞台に立っていたのではない。遠賀更紗はプロンプター――幕の後ろから、役者にセリフを教える係だった。
「どうして、私なんか? 演劇部にいい子、いくらでもいるでしょう」
 更紗に言われて、杉山は熱っぽく説明した。
「芝居ができるっていうのと、映画とは違うんですよ。存在感っていうのかな、要するに、遠賀さんはフィルム映りがいいんです」
 それでも更紗は引っ込み思案らしく、しぶっていたが、杉山の説得に負けたような形で出演することになった。
 学年は同じ二年だが、映画の中では、季里が姉、更紗が妹だった。杉山が決めたのだ。
 そして、どうしてだろう。次第に季里も、たぶん更紗も、ほんとうの姉妹のような気が、してきていたのだった。
 撮影は、二年の秋の初めに始まり、気がつくと、もう冬休みだった。気がつくと、最後のシーンになっていた。冬休みの一日を割いて撮られた、図書館の屋上でのシーンだった。

姉「うちへ帰りましょう。私たちの家へ」
妹「まだ、夕方よ」
姉「もう、夕方じゃない」
妹「私、いつまでもこのままでいたい」
姉「人はね、いつまでも同じ所にはいられないの」
妹「そう……淋しいね」
姉「うん。淋しいね。でも、それも人間である証(あかし)なのよ」

「カット! お疲れさま」
 杉山が声をかけ、今までしんとしていたスタッフが、がやがやと機材を片付け始める。
 季里は、この瞬間が好きだった。それまで張り詰めていた空気が、すうっと流れ始めるような解放感があった。……そして、淋しさも。
「これで最後だね――」
 スタッフのようすを見ながら、季里はつぶやいた。
「本当に、最後かもしれませんね」
 杉山が、しみじみと言う。
「えっ。杉山君、もう、映画、撮らないの?」
「撮りたいんですけど、撮れないかもしれません」
「受験勉強、するから?」
「いえ。8ミリのフィルムが生産中止になるんです。もう機材なんかとっくになくなってますし、滅びゆく文化なんですよね、8ミリ映画って」
「そうなの。ざんねんね」
「でも、ビデオテープになるんでしょう」
 更紗が言った。
「ビデオの画質は、なんていうのかな、よすぎるんですよ。……古本には、古本なりの味があるでしょう。少し、陽に焼けていても」
 季里は、うなずいた。
「いまのところ、そういう映像の質感を作るには、パソコンとソフトがいるんですけど、高いんですよ。上映には、プロジェクターも要りますし」
「でも、『いまのところ』でしょう。杉山くん、将来は映画監督にならないの?」
「うーん。なりたいとは思いますけど、いや、むずかしいですよ。水淵さんは、何になりたいんですか?」
「私? 考えたことなかった……」
「季里は、樹を植える仕事がいいわ」
 急に、更紗が言った。
「造園とか、そういうのですか」
「別に、ただ思いつきで。でも、季里には似合いそう。樹を植えて回るの。いろんなところを。そうやって、森を増やしていくの」
「――うん。いいね……更紗は?」
「あたしは、何にもならないわ」
「主婦ですか?」
「ううん。ほんとうに、何にもならないの」
 更紗は、不思議な自信に満ちたようすで、答えた。
「そうね……人間以外の『もの』になら、なるかもしれない」
「人間以外?」
 季里には、意味が分からなかった。
「うまく言えないんだけど、たとえば、神さま」
 言って、更紗はハッとしたような顔になった。
「あたし、何を言ってるんだろう。神さまだなんて」
「神さまですか」
 面白そうに、杉山が言った。
「いいんじゃないですか。神さまの遠賀先輩も撮りたいな」
「神さまはフィルムに映るの?」
 無邪気そうに、更紗は尋ねる。杉山は頭をかいた。
「そういう、心霊写真みたいなものは、撮ったことがないんで」
「ないのが、ふつうよ」
 更紗は笑った。
 季里もつられて微笑んだが、内心は複雑だった。自分は、人間ではない『ひと』と、何度も逢ったことがある。話を交わしたことも。
 だが、更紗には言えなかった。
 心の中で、線が引かれていた。線のこちら側には、恭司や紘史、陣内や美砂がいる。みんな大切な、仲間だ。
 更紗は、『仲間』、ではない。親友ではあるが、だからこそ、話せないことも、たくさんあるのだ。
「そういえば……」杉山が言った。
(つづく)

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季里メモ 杉山君は、「水路の夢」に出てくる人物です。
杉山君が、8ミリフィルムで映画を撮っている、というのは、いまはほとんどないことなのですけれど、91年のオリジナルを、できるだけ活かそう、ということで、そのままにしておくそうです。

「神の冬 花の春」第一章の4

  • 2014.11.16 Sunday
  • 18:50

「何、してるんですか?」
 公園の一角で、更紗は、男にたずねた。
 男は、ゆっくりと顔を上げる。
「私に、かまわないでくれませんか」
「どうして?」
「誰にも、話しかけられたくないんです」
「でも、それなら、こんな公園にいるのは、まちがっているじゃない?」
「まちがっている……そうでしょうか。そうかもしれない。でも、ここは――」
 男は、あたりを見回した。
「ここが、私の場所なんですよ。ここ以外に、私の行く所はないんです」
「おじさん、家がないの?」
「ええ。家も、家族もありません」
 かわいそうね、と更紗はつぶやいた。
「寒くありませんか?」
 季里がきいた。
 男はうっすらと微笑して、
「寒さや暑さは、じっとしていれば、いつか通りすぎてしまいます。気にすることじゃありませんよ」
 それから、季里にたずねた。
「お嬢さん。あなた、帰る家はあるんですか?」
「家族はいないけど、帰るところはあります」
 季里は答えた。
「そちらのお嬢さんは?」
「私は、家も家族もあるわ」
 更紗が答えると、男はその目をじっとのぞきこんだ。
「本当ですか?」
 更紗は、とまどったような顔をした。
「どうして、そんなこと、きくんですか?」
「いや」
 男は首を振った。
「ただ、なんとなく……あなたもひとりぼっちのような気がしたものですから」
「そんなこと、ありません」
 なぜか、更紗はむきになって答えた。
「行こう、季里」
 急にずんずん歩きだした更紗を、季里は、追う。
「どうしたの?」
「なんでもないわ。失礼よ、あんなこと言うなんて」
「そうかな……」
「そうよ。私の家のことなんて、誰にも言わせやしないわ。そうだ」
 更紗は振り向いて、
「今度、うちに遊びにきて。家族に紹介するから」
「うん……」
 答えながら季里は、どうして更紗が気を悪くしたのか、ふしぎに思っていた。

 それは、十一月のよく晴れた日曜日のことだった。
 その日の青空を、季里は一生忘れないだろう。
 なぜなら、その日から、あの『冬』が始まったのだから。

(第一章おわり)
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季里メモ
 イエルジー・コジンスキーというアメリカの作家の小説に、「庭師――ただそこにいるだけの人」という作品があったと思うのですけれど、この部分が書かれたのは、91年頃で、まだ、その本は出ていませんでした(角川書店から「預言者」というタイトルで出たのが、最初です)。
 91年ですから、そろそろ音楽や本が出ても、いい頃ですが、どうするつもりなのでしょうね、早見さんは。
 

「神の冬 花の春」第一章の3。

  • 2014.11.15 Saturday
  • 22:53
「きょう、季里は?」
 『ねむ』のカウンターで、天王寺美砂がきいた。
「デートだよ」
 相沢恭司はコーヒーの豆を計りながら、平然と答える。
「デート? あの子が? 誰と?」
 美砂がびっくりしてたずねると、
「遠賀更紗」
 答えて、サイフォンの火を点けた。
「なんだ、あの子か」
 美砂はあて外れ、という感じで、
「でも最近、ほんと、いっしょだね、あの二人。――淋しいだろ」
 からかったつもりだったが、恭司はこたえたようすもない。
「別に。季里に初めて、友だちができたんだからね。いいじゃないか」
「すると、あたしとかは、友だちじゃないんだ」
「美砂はまた違うよ。何っていうのかな……」
 まじめに考える恭司を押さえて、美砂はにこにこした。
「分かってるって。あの子たちって、なんて言うんだろ……ふたり、おんなじっていうのかな。そういう感じだよね。どこへ行くのもいっしょだし」
 姉御肌の美砂は、どっちかというと季里のお姉さん役になっている。完全に対等というわけではない。
「いっしょ、って言えば……」
 恭司がコーヒーを注ぎながら言った。
「遅いな、陣内。待ち合わせだろう?」
「バカ言わないでよ」
 美砂は顔を真っ赤にした。
「あたしはただ、用事があって、で、どうせだったらお宅の店を繁盛させてやろうっていうんで、ここで会う約束に――」
「俺を呼んだかい?」
 いつもの声と共に、陣内が姿を現わした。美砂を見て、
「どうした? 顔が赤いようだが――カゼか」
「なんでもないの。テーブル行こう、テーブル」
 陣内をせき立てておいて、美砂は、恭司に小声で言った。
「言うようになったね、相沢。でも、調子に乗るんじゃないよ。あたしからかうと、あとがこわいの、知ってるでしょ」
「何とでも。今までのお返しさ」
 恭司は余裕を見せて、笑い返した。
 このごろの季里は、ひとりで、あるいは更紗と共に行動していても――つまり恭司といっしょにいなくても、危なげがなくなった。
 それは季里が少しは大人になったということでもあるのだろう。しかし、恭司自身の心の変化もあるだろう。いつでも季里を見ている恭司、ではなくなりつつあるのだ。
 恭司は高校二年。「それはそれとして」の季節を迎えようとしているのだった。
 人間関係、趣味、人生の意味……人に必要なすべてのことが、「それはそれとして」の大きな段ボール箱にしまわれてしまい、ただ一つの、小さな点だけが目標として示される。つまり、勉強さえしていればいい、そうでなければならない季節に、恭司はいるのだった。
 だが、季里のことは……。

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季里メモ

 この原稿は、もらってちょっとびっくりしました。恭司のこともそうですし、陣内君と美砂のこともそうです。
 91年頃、早見さんは、こんなことを考えていたんですね……。

 

「神の冬 花の春」第一章の2。

  • 2014.11.14 Friday
  • 23:55
 二人は、近くの公園のベンチでひと休みした。
 並んで座ると、同じ高校の制服を着た二人は、歳の近い姉妹のように似ている。小柄で、やせていて、こわれそうに見える。ちがうのは、目と、髪だ。季里はショートカットで、目が大きく、視線が強い。更紗の髪は茶色でふんわりしていて、目つきが弱々しい。
「日曜なのに、誰もいないね」
 季里が、見回して言う。
「いい天気だから、みんな出かけちゃったんだよ、きっと」
 更紗は答えた。
 それでも、離れたところにある学校のグランドからは、野球をしている人の声が、風に乗って聞こえてきた。
「ねえ。あの人――」
 更紗が指さした。
 向こうの隅のベンチに、うずくまるように腰をおろした、男の姿があった。髪は白いが、中年だろう。くたびれたカーキ色のジャケットを着て、体格はがっしりとしているが、何か深刻なものがのしかかっているように、肩を落としていた。
「ずっとあそこにいるみたいだよ」
「見たの?」
「うん、前にも」
 更紗はうなずいた。
「まだイチョウの葉が青いころ。おんなじジャケット着て、おんなじかっこうで」
「毎日、来ているんじゃない?」
「ううん、ずっとあそこに座っているんだよ、きっと。――聞いてみようか」
「聞くって?」
「何をしてるんですか? って」
「更紗がそうしたいのなら、きいてみたら」
「うん。行ってみよう」
 更紗はベンチから立ち上がって、男のほうへ歩みだした。

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季里メモ:
 なんだかただならないふんいきの、男の人ですが、早見さんは、この男の人を、描いたことがあるそうです。「はやみの塔/蕪工場」という同人誌で、ドラマカセットにしたのですが、いまは、早見さんも、現物を持っていないそうです。タイトルは、「ラフレシア・アムネジア」というものでしたが、このふたつの名詞は、語感が似ているので、よく使われているらしい――ということでした。早く書かないと、そういう問題が出てきます。
 今回のお話は、それにつながるものではないので、いいのですけれど、記録に残しておきました。
 

「神の冬 花の春」第一章の一

  • 2014.11.13 Thursday
  • 18:08
第1章 イチョウがこわい

 西からの乾いた風が激しく吹き続けて、空の色は青く、重くなっている。雲は、綿ぼこりのように軽く、小さく、空中を流れていく。
 あまりに青い空は、かえって暗く見える。だが、空気が澄んでいるので、陽の光はいつもより強く地上を照らして、すべてのものが輝いて見える。
 風は、樹々を通り抜ける。
 小さな木の細い枝はコマ落としのようにせわしなく、大きな樹の高い梢はスローモーションのようにゆっくりと揺れ動く。それらの乾いた葉音が、吹き動かされては揺れ戻し、風の強弱に合わせてさわいだり、静かになったり――くり返す音は、海のように果てしなく響く。
 耳のそばではボウボウと風を切る音が聞こえて、足元を大きな枯葉がカサカサと走り過ぎていく。
 秋の終わりの風と樹が、くっきりとした光景の中で激しくぶつかり合う中を、同じ歳かっこう、同じ制服を着た少女が二人、吹き流されそうに歩いていた。
「すごいね。もう、すぐ、冬だね」
 水淵季里は、圧倒されたような声をあげた。
 もうひとりの少女は、黙ったまま歩いていたが、前方の並木を見て、ぴたりと足を止めた。
「どうしたの?」
 季里がたずねると、少女は青ざめた顔で、首を振った。
「こっちの道はだめ。ほかの道にして」
「だめ、って?」
「イチョウなの。イチョウの樹が、こわいの」
 ほんの数十メートル続く並木道を、地獄への入口のように恐ろしそうな目で見て、少女――遠賀更紗〔とおが・さらさ〕は答えた。
「なにか、わけでもあるの?」
 季里の問いに、更紗は、また首を振る。
「分かんない。でも、……季里は平気なの?」
「うん。だって、樹は好きだよ」
「ちがう。イチョウは、ただの樹じゃない。生きてるみたい。――動物みたい」
 季里にはよく分からなかった。
 けれども、風にざわめくイチョウの樹を見ていると、たしかに他の樹とはちがう。風にただなびいているのではなく、身をよじり、天に叫び声をあげているかのようで、生ぐさいような生命感があった。
「じゃあ、ほかの道を行こうね」
 季里に言われて、更紗はほっとしたような顔になった。
「ごめんね、勝手なことばっかり言って」
「ううん」
 季里は微笑んだ。
「きらいなものって、みんなそれぞれだもの。それに、遠まわりするの、好きだよ」
「よかった。季里といっしょで」
 更紗はうれしそうに言った。

--------------------------------
【季里のメモ】とうとう、物語がはじまりました。
この辺りが書かれたのは、91年ぐらいなので、字の使い方や、かなの使い方が、ずいぶん違っている、と思います。
できるだけ、昔に合わせたい、と早見さんが言っていますので、よろしくお願いいたします。
あと、早見さんの生活もありますので、毎日更新、というわけにはいきません。

それにしても、寒くなってきましたね。
皆さんも、寒さにはお気をつけて下さい。
 

「神の冬 花の春」序章の2

  • 2014.11.12 Wednesday
  • 15:30
 季里です。
 早見さんに託された、原稿の続きです。よろしかったら、お読みください。

「――まだ、いたんですか?」
 季里が声をかけると、背は丸めたまま、顔だけを上げた。
「ああ。お嬢さん。『外』はひどい雪ですねえ」
「どうして、ここだけ雪が降っていないんでしょう」
 季里は、尋ねるともなく、つぶやいた。
「どうやら私は、世界に取り残されているらしい」
 男は哀しげに言った。
「それなら、まだ何も?」
「ええ。何も思い出せません。だから、こうして何も変わらないまま、座っているんですよ。あなたは?」
「私、友だちを捜しているんです」
 季里が言うと、男は目を細めて、記憶を必死に探っているようだった。
「ああ。あの、あなたによく似たお嬢さんですね。近ごろ見かけない……いや、はっきりとは言えませんね。私はとにかく、すべてを忘れてしまうのだから」
「どうしても、見つけなければいけないんです」
 季里は言った。
「何か、大事な用があるんですね」
「この冬を、終わらせなければならないんです。そのために、あの子――更紗を捜しているんです」
 更紗〔さらさ〕、という名前を口にした時、季里はかすかに震えた。開いた口から、寒気が体の中を凍えさせるのだった。
「見つかるといいですね」
 男は心から、という調子で言った。
「あなたは、まだ、ここにいるんですか」
 季里はたずねた。
「ええ。何か思いだすまではね」
 男は言って、
「また、会えるといいですねえ。お互いに、覚えていればの話ですが」
「私は忘れません――ぜったいに」
 季里は答えた。
 再び公園から歩きだそうとする季里に、男は声をかけた。
「お気をつけなさい。雪は、人の心も凍らせて、気持ちをくじけさせてしまう。そのことだけは、お忘れなく」
 背中でうなずいて、季里はまた歩みだそうとしたが、ふと振り返って、たずねた。
「神さまがどこにいるのか、あなたは、ごぞんじですか」
「神さま……それは、何ですか」
 男は聞き返した。
 季里は、うっすらと微笑んだ。
「いいえ。なんでもありません。あなたは、しあわせな人なんですね」
 季里は、歩み去った。更紗はどこにいるのかと思いながら。
 そして男は、またベンチに腰を下ろして、神さまとは何かを、ぼんやりと考えていた。
 男のわずかな記憶の中に、そのことばは見あたらなかった。

 それは、ある年の東京に訪れた、ある冬の中でのできごとだった。

(この章、終わり)

「神の冬 花の春」、スタート。

  • 2014.11.12 Wednesday
  • 01:29
 早見さんとお話し合いして、物語は未完成なのですけれど、「神の冬 花の春」を、書いてみる――ということで、話が決まりました。
 ただ、ちゃんとした仕事ではないので、途中で詰まったり、飛ばしたりするところが、出てくるはずです。
 あと、他の作品と、矛盾するところも、出てきます。
 その時は、脳内補完をするとか、だいたいの雰囲気を感じ取っていただければ……。

 とにかく、物語はここから始まります。

序章

水淵季里は、生まれた時とても体が弱かったので、彼女の母親は、じょうぶに育ってくれるよう、神に祈った。そして、『祈り』という意味の名前をつけた。『季里』とはラテン語の『キリエ』――『主よ』という意味である。
季里の両親は、カトリック教会に属するキリスト教徒だったが、季里自身はその神を信じてはいなかった。
  彼女が十二歳のとき、両親とたったひとりの姉は、自動車事故で亡くなった。それ以来、季里はますます神を信じなくなった。
  ひとりぼっちになった季里は、姉の婚約者だった相沢紘司に引き取られた。紘司は東京の郊外で喫茶店を経営しており、季里と同い年の弟、相沢恭司が同居していた。
こうして季里は、高校二年になったが、神について考えることはあまりなかった。この冬が来るまで――。

――耳の先が、ちぎれるように痛かった。
長靴には厚いフェルトの中敷きが入っているが、つま先がちりちりと痛んでいる。
形あるものは何一つ目に見えない。ただ白い粒子が、猛烈な勢いで吹きつけてくるだけだ。
吹雪の中で、水淵季里は、一歩ずつそっと足を下ろし、その固さが自分の体重を支えてくれるかどうか、確かめながら歩いた。
急いではいけない。
足もとの雪は、厚いけれども柔らかく、表面は平らだが、その下のすべてを覆いつくしている。思いがけない穴や溝が隠されていないとは限らない。そうした吹きだまりにはまりこんだら、生命を失うこともあるのを、彼女は知っていた。
天も地も、白い闇で埋めつくされている。自分がどこへ向かっているのか、どれほど歩いたのか、ここはどこなのかさえも定かではなかった。
ごうごうと吹き荒れる吹雪の音の中で、ただ、何をしようとしているのかだけが、頭の中にあった。
――あの子を、捜さなければならない。
吹きつける風と雪の中では息が苦しく、大きくあえぎながら季里は歩いた。
やがて、ふいに、まったく突然に、白い闇がとぎれた。
世界の中でそこだけが、冬ではないようだった。むきだしの土が見え、上空から舞い落ちる雪は、その空間だけを避けているようだった。
小さな公園である。
高さ四、五十センチの赤く錆びた鉄パイプに囲まれて、いくつかのベンチとブランコ、小さなすべり台。すっかり砂の固まってしまった砂場に、プラスチックのダンプカーが半分埋まっていた。
くずかごの横のベンチに、男がひとり、腰を下ろしていた。くたびれた背広姿の、やや小太りの中年男だ。頭にぺたりと貼りついた髪に白いものが混じり、その下の二つの目は、哀しそうな色をたたえている。背中を丸めてわずかにうつ向き、じっと座っていた。まるで誰かを待っているかのようだった。
公園に足を踏み入れた季里は、激しい風雪から解放されて、ほっと息をつき、オーバーのフードに積もった雪を、全身に吹き付けられた雪を、払い落とした。
ベンチの男は、季里が来たのに気づかないようすで、うつ向いたまま座っている。
「――まだ、いたんですか?」
季里が声をかけると、背は丸めたまま、顔だけを上げた。
(つづく)
 

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